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Questionary performance

    Starring Kaori Igarashi. Katsura Kan.  Kazushi Murakami.  Ai Kawase. 

Summary manami tanaka

Performance 2021 at “Kyoto art center”

 

・Performance concept

Express your thoughts accurately in the same words as others.

I can’t do that, so I become an artist.

Dancers have original words on their bodies.

It’s called dance, not letters. It’s a dance work that we usually see.

This time, I will dare to communicate with the dancers in common language.

How do dancers react to my words?

Time one breath of the dancer and start the interval alarm.

Each time the alarm sound, the voice of the recorder and the dancer changes.

If the right to speak comes, the time belongs to that person. Free time.

ree to express. You can choose not to do anything.

Continue this for 15 minutes.

出演 五十嵐香里 桂勘 村上和司 川瀬亜衣 
​撮影 manami  tanaka

記録者 土居大記 第3案


 

公演で行ったアンケートパフォーマンスについて5ヶ月の間プロジェクトメンバーとダンスを記録することについて話し合った結果、ダンスは見ようとしても視えないのではないかと思い至った。なぜか。 

様々な分野で活動するメンバーが「ダンサーを記録する」ということを考えるために集まった。 非常にパワフルで混沌としたミーティング時間を共有した。メンバーがそれぞれの視点でダンスについて考え合う時間を過ごしてわかったことがある。ダンスを記録するということ、ダンスとは何かということの結論は掴めそうで掴めない。その周りをぐるぐると周り続けるような感覚を覚えた。話し合い、時間をかけても自分にとっての答えに近づくことはできない。私は表現を経験することでしか自分の答えには近づけないと思った。そのグルグル周った時間があってこそ生まれたパフォーマンスだと言える。つまり

ダンスではない何かを見ることでダンスも見えてくるのではないか。そういう発想からこのパフォーマンスを行った。まずはパフォーマンスのルールを紹介する。

 

1、ダンサーの呼吸を測る

2、呼吸の時間ごとにベルが鳴るようセットする 

3、記録者とダンサーはベルが鳴るたびに発言権を交代してやりとりを続ける。 

4、記録者はダンスのことを問わない

5、ダンサーは自由

6、15分で終わりを見つけて終了する

 

ダンサーでなくても成立する内容にしたかった。呼吸は誰にでもできて個人差がある時間だ。

ダンサーが舞台でダンスらしきことをしない。それは一体何の時間になるのか。それを確かめることが私にできる記録ということだったのかもしれない。

 

考察

1日目 村上和司&五十嵐香里 

この日はゲネと本番の2回パフォーマンスを行った。リハや練習はほぼしていなかった。だからゲネではルールの確認や戸惑いが多くあり朗らかでリラックスした空気になった。ゲネでは村上さんの10秒の呼吸で行われた。 本番ではある程度進行が分かった上で観客もいたことでゲネとは大きく空気が変わった。呼吸は五十嵐さんの15秒の呼吸で行われた。前半は無言の15秒も多く体こそ動かないものの頭はいっぱいいっぱいになっているようだった。 見られることと舞台空間にさらされることで立ち振る舞い、意識が大きく変わった。 この回の質問で最も記憶に残っているものがある。私は「今日お客さんと何回目が合いましたか?」と聞きいた。五十嵐さんは「一回合いそうになって逸らしました」と答え村上さんは「まだ合ってません」と答えた。

 

2日目 桂勘&川瀬亜衣

桂さんの10秒の呼吸で始まった。桂さんは恣意的な振る舞いで質問に答えたり、答えず歌を歌ったり関係のない内容を話したり。川瀬さんは何かをしようという意識があまり感じられず桂さんとは違う意味でマイペースさを貫いていた。終始動きと音が滞りなく流れる時間であったように思う。最後に「この時間を一言で」と聞くと桂さんが「一言で表すならやっぱり恥ずかしい空間やね。私にとっては。恥ずかしくないですか?なんかこういう、、これが彼の意図でね、、、」と時間切れになったが最後にこのように答えたことが記憶に残っている。


 

プロジェクトメンバーの感想(名前は伏せるのも有りか?)

 

仙波 このパフォーマンスが何なのかがよく分からなかった。黒字省略時間に制限を与えられた会話形式のパフォーマンスで、自由に歩きながらパフォーマンスが続く。話がとぎれとぎれ、繋がっているような、浮遊しているような時間が続く。その具合になんとも言えない微妙な間があり、見ている人の没入をたぶらかす。投げるフォームは正しいが、投げるボールが言うことを効かないような状態、状況。即興で会話することと踊ることは分離しているようで、パフォーマーとしての共有意識がどこかに働いているように感じる。時間に制限を与えられた踊りの(身体言語による右脳的な)会話より、(言葉による左脳的な)会話の方が具体的な場所や具体的に何を想うかが明確に言葉として表わされ、ある程度の会話を成立させないといけないという前意識から、よりパフォーマンスが複雑に難解になっていくように感じる。しかし、緊張感のあるパフォーマンスの中で、ダンサーの「ダンス作品」以外で、即興の会話として場を提示することで、ダンサーのパフォーマンス以前に潜在する意識や、価値観などが抉り出されていたいたようにも思う。それがこのパフォーマンスの大きな的だったのか、と仮説を立てる。そこからダンサーの踊りとの繋がりを図るのは面白いと思った。

 

渡辺 無防備さがあった。

 

奥田 アンケートって質問なの?ベルが面白かった。

 

遠藤 居心地が悪かった。観客が期待してしまう設えだった。舞台が持つアフォーダンスがあぶり出されて面白かった。

 

土居 どこからが踊りで踊りでないのか。今回は踊りではないと思った。観客の中にはダンスの 間を感じたという人もいて、人によってダンスの定義が違うと分かった。

 

村上 すごい困りました。時間がすごく長く感じた。ゲネと本番、明らかに体が違うのが分かった。ゲネの方がピュアだった。ゲネの方が困った。

 

五十嵐 本番になったら喋れなかった。喋れなくなるのがパフォーマンスだったのか。

 

桂 自分が出ている範囲は面白いパフォーマンスにしたくて努力してしまった。そこに新しいダンス的な要素があるのか、土居さんが探しているのか気になった。他にもいろんな人とやったら 面白い。観客がどう感じたのか知りたい。

 

川瀬 どう言うか、なんて答えるか、考えている間に十秒が過ぎていく。黒字省略考えている間に、話が進んでいく。ちょっと流れから逸れた気がして空間の隅に居場所を見つける。でも見られていることが、時間を作る一因であることは変わらないので振る舞いで何か発言している。するといつまでも喋っているような感覚になる。落ち着いて考えてから言葉にして話したいのに話せない。落ち着きたい。座る。話しきれない。「恥の感覚は」と言ってタイムオーバー。「恥の感覚は、私の場合はどこにもない。舞台上にいても客席にいても同じように振る舞っている。人の前だから」と言うのが言い切りたかった言葉です。

 

観客A 10秒毎に発言の主体が変わっていくときにダンサー同志の距離だけではなく離れ方もはっきり違うように思えました。その変化の流れをどうデザインしていくかがきっと重要だと思った。

 

観客B 合図とともに言葉がけでなく体が止まってしまうのは自然とそうなるのかなと思った。

 

観客C 短く足りない10秒 長く気まずい10秒 充実した10秒。いろんな10秒を見る事ができました。

 

観客D 土居さんの作る間や問いかけがフラットで、ダンサーさんが恥ずかしいと感じるまで中身を形にしてるのがすごいなと思いました。

 

観客E コミュニケーションに制限をかけても面白い。むしろその方が面白い事が多いかもと感じました。

 

観客F 間は観る側もやる側も慣れるんだと感じました。

 

観客G  誰が喋るのか互いに探り合ってるのが面白かった。チャイムがなると喋るのを止めるだけでなく、連動して動作も止まってしまうのが不思議だった。

 

観客H 何がしたかったのかよくわかりませんでした。アンケートなのかインタビューなのか、何を生み出したかったのか。

 

観客I ややすべり気味ながらもっと繰り返すと良くなるかも。

 

観客J ダンサーと意思疎通するのに呼吸を選んだ。すぐ思いつきましたか?

他に思いついたこともありますか?


 

土居の発見 

 

ダンス≠無防備≠自然体≠ニュートラル

 

記録≠保存≠変換≠説明

 

舞台上でダンサーからダンスを抜くこと。無防備でいることの過酷さ。舞台というしつらえの影響力。


 

最後に

 

ダンサーが舞台でダンスらしきことをしない。それは一体何の時間になるのか。 舞台に境界はない。ダンサーに境界はない。表現に境界はない。 舞台に人がいることと観客席に人がいることでできてしまう境界。一方通行気味ではないか。私が崩したいと思っていることだ。その関係が作る力にはポジティブな面もある。表現の伝達がしやすいなど。このパフォーマンスではその関係を崩すことができたと思っている。ポジティブな面もネガティブな面も取り払うことができたのではないか。これは公演後の今だから自覚できることだ。本来であればこの崩した後、そこで何を提示できるかが作品としての問いになるのだろう。今回は実験としてこの関係を崩すことがどういうことなのかをダンサーや観客のおかげで得ることができたと思う。

そして元々の目的である記録という正体について。

おそらく私にとって記録するということは変換することでも、解説することでも、留めることでもなかった。

記録というのは伝わって残っていくこと。もとの跡形がなくなったとしても。

最も避けるべきなのは、文字や写真で記録できたつもりになってしまうことだろう。そこを常に疑って自分の中で何が姿形を変えて残っていくのかを観察することが記録の本質ではないだろうか。

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